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『龍馬伝』第13話を見る - 龍馬脱藩と東洋暗殺、那須信吾の二週間

龍馬伝_13_1龍馬の脱藩は文久2年(1862年)の3月24日。ドラマは4分の1を終えたところだが、龍馬の残りの人生はあと5年しかない。脱藩のルートは諸説あるが、最も有力とされているのは次の経路である。神田の和霊神社に詣でた後、朝倉から伊野を通って佐川へ、そこから南下して朽木峠を越えて東津野に抜け、梼原の那須俊平宅で一泊。翌日、四万川から松ヶ峠の番所を破り、国境の峻険な韮ヶ峠を越えて伊予(大洲藩領)に入国、泉ヶ峠(河辺)の宿場で一泊した後、宿間(内子)から肱川河口の長浜の港に出て、海路を下関へ向かったとする道筋。道中を供にしたのは沢村惣之丞だが、高知から梼原までは那須信吾が、そして梼原から宿間までは信吾の義父の那須俊平が道案内を務めている。高知から梼原まで64キロ。那須信吾はこの距離を一日で歩いていた。道路が舗装され拡幅された今でも、高知から梼原を一日で歩くというのは考えられない。当時の朽木峠超えの山道はさらに難渋しただろう。人間離れした神業だ。また、土地勘のある者が同伴しないと、朽木峠をショートカットして梼原に至るコースは選べないと思われる。歴史作家が作品に描いた脱藩ルートも様々である。津本陽の小説では、仁淀川西岸の新居村で沢村惣之丞と落ち合い、宇佐の港から小舟で横浪三里を渡って須崎に上陸、そこから梼原をめざしている(集英社文庫 第二巻 P.228)。須崎からは新荘川を遡る梼原街道がある。この行程の方が、朽木峠を越えるより便利で時間も短縮できるかも知れない。  

龍馬伝_13_2司馬遼太郎の小説では、仁淀川を遡って国境を伊予に抜けるルート、現在の国道33号線の経路で脱藩したことになっている。これは、那須信吾が2週間後に脱藩した順路を史料で紹介して、そのまま龍馬も同じ道を辿ったとしたものだが、国道33号線で伊予へ抜けてしまうと、梼原の那須俊平の家へは行けなくなる。那須信吾は、自分が脱藩した道程を手紙で家族に克明に伝えていて、司馬遼太郎の小説の中にそれが出て来る。すなわち、「ゆかりある森村にくだり着き候へども、すべて人家をもたたかず、干飯を囓り、高瀬村をよぎり、遂に別枝村に到り、徳道ノ関をぬけ、沢渡より舟渡りして、黄昏前、やうやく久万山のうち岩川に着き、止宿仕り候」(文春文庫 第二巻 P.438)。ここで「舟渡り」とあるのは、仁淀川を舟で渡ったという意味である。当時の仁淀川上流の土佐と伊予の国境地帯にはまともな陸路がなく、河川が交通手段だったのだろうか。当時、高知城下と松山城下を最短で結ぶ街道は、池川口番所を中継するルートであり、仁淀川からは大きく北に外れる現在の国道494号線の山道だった。遠い遠い将来、高知と松山を直に繋ぐ高速道路が整備されるとき、脱構築の設計思想でこのルートが選ばれそうな予感がする。近代日本の合理主義は、仁淀川沿いに国道33号線を敷いて高知市と松山市を繋いだ。それが当時の土木技術で合理的な道路建設だったからで、そして同時に、前近代否定の国家事業の思想的意味もある。立川番所や池川口番所は忘れ去られた。箱根関所と東海道本線の関係と同じ。

龍馬伝_13_3ドラマで、那須信吾の役割とキャラクターが詳しく紹介されないのが残念である。龍馬の物語を見せようとすれば、那須信吾と那須俊平の親子については詳しく触れなくてはいけないし、特に龍馬脱藩と東洋暗殺の段では、この二人が物語の前面に出なくてはいけない。那須信吾は、龍馬脱藩を道案内した2週間後の4月8日、帯屋町(現在の追手筋)で東洋を襲撃して斬殺するのである。わずか2週間の間に、那須信吾は歴史に名を刻む生涯の大仕事を二つ成し遂げている。文久2年の3月下旬から4月上旬の日本史の主人公になった。那須信吾は佐川の生まれで、父は深尾鼎の家中の浜田宅左衛門。父が早く死に、兄に育てられ、長じて梼原の郷士で槍術道場を開いていた那須俊平の養子となった。信吾は城下の日野根道場で剣術を磨いた達人で、ここで龍馬と深い親交があった。半平太が信吾を暗殺団の主担に任命したのも、信吾の剣術の腕前が買われたからである。東洋を暗殺後、脱藩して下関の白石征一郎の下へ逃げ、大坂の長州藩邸に潜伏、吉村寅太郎と合流し、翌文久3年8月に天誅組の挙兵に参加して天誅組の軍監となる。天誅組は、孝明天皇の大和行幸を機に攘夷派でクーデターを起こすべく決起、大和周辺の代官所を襲撃して進軍するが、8月18日に京で政変が起きて情勢が一変、攘夷派は瓦解した。大和の天誅組は取り残され、高取藩、郡山藩、津藩、彦根藩など佐幕各藩による討伐隊の包囲と攻撃を受けて壊滅、信吾と寅太郎の二人も鷲家口(東吉野村)で狙撃されて戦死する。信吾は34歳、寅太郎は27歳だった。

龍馬伝_13_4龍馬を伊予の宿間まで送った那須俊平も、養子の信吾の死を知った後、信吾を追うように土佐を脱藩、真木和泉と中岡慎太郎が隊長を務める忠勇隊に参加する。元治元年(1864年)7月の禁門の変で京に突撃、薩会両軍と激戦の末、鷹司邸後門で討死した。58歳。那須俊平の脱藩については、信吾による東洋暗殺が藩に知れ、その累が義父の俊平に及ぶのを恐れた俊平の弟子たちの手引きによるものという情報がある。文久3年8月18日のクーデターで政治状況は一変して、革命派は各地で総崩れとなり、土佐でも帰国した容堂が勤王党への弾圧を強めていた。文久3年4月から始まった容堂による東洋暗殺犯の捜索は、この情勢の激変を受けて厳しさを増し、遂に9月には半平太の逮捕と投獄にまで及んでいた。確認できる情報は持たないが、おそらく、俊平は57歳にして初めての京だったのではないか。まさか、自分がそのような風雲の中で討死するとは思ってもいなかっただろう。天下無敵の槍の遣い手と言われた俊平だが、何と言っても年齢が年齢。そう言えば、長州の遊撃隊を率いて禁門の変で馬上槍を振るい、薩摩軍の精鋭と激闘の末に戦死した来島又兵衛も47歳だった。司馬遼太郎の小説に描かれた最期が印象的だ。革命に散じたのは、決して若い者たちばかりではなかった。信吾が脱藩する龍馬を梼原の屋敷に連れて来たとき、俊平は信吾が2週間後に東洋を襲撃することを知らない。俊平が事実を知ったのは、信吾が脱藩後に送ってきた手紙によってだった。龍馬はこのとき、すでに東洋暗殺計画を知っていた。それを知ったから、脱藩に踏み切ったのである。

龍馬伝_13_5信吾と龍馬は日野根道場の同門であり、きわめて親しい間柄だった。朽木峠を超える道すがら、信吾は龍馬に自分が刺客を受けたと告げただろうか。私が龍馬の物語を書いたら、必ずその場面を挿入する。津本陽の小説にも、司馬遼太郎の小説にも、脱藩の場面に道案内役の信吾が登場しない。信吾は、どんな気持ちで龍馬と梼原までの道を歩いただろう。龍馬にとって信吾は信頼できる友人であり、同じ剣の俊才で同志だったから、脱藩という危険な賭けの旅立ちの支援を頼んだのである。二人の間に根本的な信頼関係がなければ、こんな相談と依頼はできない。無論、信吾と龍馬の間には、さらに寅太郎という存在があり、半平太と路線を分けた梼原の寅太郎が先に脱藩して、惣之丞を通じて龍馬を脱藩(久光上洛を機に捉えた文久2年の攘夷革命計画)へと引っ張ったという事情もあった。小説家ならば、この脱藩の道中で、信吾と龍馬の二人に東洋暗殺について語らせたいと思わないか。果たして、龍馬はこのとき、東洋暗殺の秘密指令が信吾に託された事実を知っていただろうか。信吾は、2週間後の東洋暗殺という勤王党の秘中の秘を知り、その刺客の身の上で、同時に、土佐の郷士にとって決定的な事件である龍馬脱藩に援護者として直接関わっていた。私は、龍馬は全てを知っていたと思うし、また、信吾は全てを龍馬に打ち明け、それだけでなく、半平太から龍馬への伝言も授かっていたと思う。それだけ強く、龍馬と半平太の二人は固い絆で結ばれていて、龍馬と信吾と半平太の熱い関係があったと、そう思いたい。東洋は神陰流皆伝の剣の凄腕を持っている。信吾にとっても決死の覚悟の2週間だったのだ。

龍馬伝_13_6東洋暗殺については、司馬遼太郎の小説での描写が素晴らしく、圧倒的な迫力と説得力がある。この日、信吾は一人の甥っ子に義挙の一事を告げていた。兄の浜田金治充美の長男で、後の元勲の田中光顕(浜田辰也)である。このとき19歳。佐川出身の田中光顕は、暗殺の日、藩家老の深尾鼎の下屋敷にいた。深尾鼎の知行地は佐川である。司馬遼太郎は、田中光顕が94歳のときに口述した自伝を引用し、当日の出来事を克明に描いている。信吾は光顕に暗殺決行の現場を教え、夜明け前に路上の死骸を確認するように言い渡した。そして暗殺を確認次第、佐川へ走り、佐川の深尾鼎に事変を伝えるよう言っている。眠れぬまま一夜を過ごした光顕は、叔父に言われたとおりに動いた。暗殺現場は当時の帯屋町一丁目。東洋の邸宅のすぐ手前、時刻は午後10時すぎ。城で若い藩主の豊範に「日本外史」を講義した帰りだった。高知城大手門から東洋遭難の碑が立つ地点まではきわめて近い。そこは、現在は有名な日曜市が開催されている場所で、広末涼子が通っていた追手前小学校の塀の横である。現在の帯屋町は県下一の商店街で、衣料品店のお嬢様だった広末涼子は、毎日、東洋の屋敷と暗殺の現場を往復していたことになる。当夜の暗殺団は3人。那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵。雨の中、東洋の自宅付近で待ち伏せしていた。勤王党による東洋襲撃は、すでに藩の察知するところとなっていて、藩の警戒は厳しく、事前に二回計画があったが、襲撃に至る前に感づかれて実行者に尾行と偵察が張り付き、半平太はヒットマンを次々と変えなければならなかった。テロの危険を予知しながら、剛腹で剣に自信のある東洋は警護をつけず、若党と草履取りだけを連れて歩いていた。

龍馬伝_13_7東洋は土佐藩の参政である。いわば日本国の総理大臣で、藩の最高首脳だったが、警備は無用と単独で通勤していた。そこに東洋の気骨と矜持があり、同時に油断と陥穽があった。剛毅で偏屈な「いごっそう」なのであり、護衛は壮士で英雄たる男子の選択ではなかった。愛すべき土佐の独裁者、東洋。神陰流免許皆伝の達人も、三人の刺客に不意を囲まれ、しかも逃げようとせず果敢に立ち合ったため、防ぎきれず凶刃に斃れた。47歳。小説を読むと、那須信吾には佐川に妻と二人の幼い子供がいた。信吾は、妻と幼い子供を義父の俊平に託し、俊平は託されるに十分の(経済的)存在ではあったが、翌年に57歳の身で単身脱藩して京の戦場に果てた。二人の子供は、その後どうなったのだろう。元勲となった田中光顕が責任を持って養育したのだろうか。信吾は、脱藩して伊予から長州に抜けたまま、二度と土佐に帰ることはなかった。多くの土佐の志士がそうである。伊予から長州へ。文久から元治にかけての土佐の志士の脱藩ルートは、経路は様々だが、基本的にこのルートである。全員が下関の豪商の白石征一郎を頼った。白石征一郎の財力の支援がなかったら、土佐の志士の活躍はなく、特にその恩恵を受けた典型が中岡慎太郎だろう。ドラマでは、坂本家の二女の栄が出て来ない。津本陽の小説にも姿を現わさない。津本陽の小説でも、テレビと同じく、刀は乙女が提供している。司馬遼太郎の小説では、坂本家に出戻っていた次姉の栄が登場して、龍馬に陸奥守吉行を手渡す場面がある。それから、前に紹介した宮尾登美子の文章(「旺文社「現代視点 坂本龍馬」所収)でも、「謎の自殺を遂げた控えめすぎる女?次姉・栄」(P.69)について書かれた一節があり、その実在が確認されている。

NHKのドラマと津本陽の小説が、栄の存在を無視し捨象した点が私は気になった。龍馬脱藩の物語においては、その責任をとって自害した栄の話は欠くことができないからである。そして、決定的とも思えるテキストを発見した。あまりに凄絶で悲劇的な逸話(実話)であり、しばらく衝撃で心が震えざるを得なかった。これが史実で間違いない。坂本家は自由で平等な女天国の世界のはずだったが、苛烈な歴史の環境と拘束は坂本家だけを例外に置いてはいなかった。戯れでも世話焼きでも成り行きでもなく、栄は死を覚悟して、龍馬に刀を渡していたのである。

龍馬伝_13_z
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魂を継ぐ数多の勇気

現古のドキュメントへの監察に、全く同じ精力で手を抜かない筆者さまの執筆への取り組みに傾頭の極みです。知らない命の真実の多さに反省しきりです。

古との対話の中に、現今の軽薄な生と死の日常への処方を手繰るアプローチ。歴史の転換に献上される、余りにも多くの真剣な命の数々。やはり反省しきりです。

リンク先のブログに、御礼と「栄さま」への鎮魂を込めて、一首上げさせていただきました。

土佐史談会の皆様の誠実な史実への取り組みをご紹介くださった筆者さまへの感謝を込め、こちらにも拙歌を一首上げさせてください。


転換の
 歴史の時を
  永久揺るは
 志士と烈女の
    魂なるかな

重い史実を

 大仰で騒々しいNHKドラマの演出にかなり食傷ぎみになっていますが、そのあと更新されるこのブログで、史実はどうだったかを解析されることで、興味の中心はそちらに向かっています。
司馬遼太郎「竜馬がゆく」にもフィクションが多くあるのは承知していますが、何度も読みこんだせいで、それが正しい史実である、という思い込みのようなものがあります。龍馬の脱藩に際して次姉の栄が登場し、龍馬に陸奥守吉行をわたすシーンも期待していましたが、ドラマにはまったく省略されていました。龍馬の脱藩後、栄は刀を渡したことで先夫の逆鱗にふれ自殺し、乙女は婚姻先から離縁される、という封建社会の女性の悲劇を、端折ってはほしくなかった。
司馬氏は「考えてみると、天が、竜馬という男を日本歴史に送り出すために、姉の一人を離縁せしめ、いま一人の姉に自害までなさしめている。異常な犠牲である。」(文庫版 巻二 p-398)と簡潔に書かれていますが、言外に重い思索を感じます。

 ドラマのなか、吉田東洋暗殺のシーンも同様に軽薄な勧善懲悪の感性しか感じませんでした。田中泯のという名優にあんな演技しかさせない演出の無能。神陰流皆伝の東洋役の、雨のなかの泥だらけの殺陣にも大いに不満があります。このブログでいわれている東洋の護衛をつけない頑迷さを表現する方法は、いくらでもあったはずです。要は脚本家/演出家の価値観の問題、しいてはNHKを取り巻く政治なども関係していると思いますから、一俳優がどうしようもないわけですが、何とも情けないポピュリズム・ドラマになってしまいました。
黒澤明が「椿三十郎」ではじめて使ったマルチカメラの手法も決して成功しているとは思いません。今更ながらに創作者の精神性がそのまま明解に現れる世界というものに納得させられます。

 世に倦む日日さんが早い時点で指摘されていた武市半平太のキャラクターについても、こんなにひどくなるとは思ってもいませんでした。幕末史に興味のあるひとには、史実とそれぞれの思い入れが交錯していますから、あまりに端折ると「水戸黄門」的なポピュリズムに飲み込まれるのは簡単です。逆説ですが、必殺仕掛人の梅安も、アイディア次第で春樹「1Q84」の青豆にも変身できるのです。

 日本では多分昨夜もう放映した今週の第14回(アメリカでは二日遅れ)から、いよいよ副主人公の勝海舟が登場するようですね。武田鉄矢氏のポジティヴな演技で、おもしろさが巻き返せばいいと思います。制作者各位、頑張ってください。金魚

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