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辺見庸の『しのびよる破局のなかで』 - 権利と平等と福島瑞穂と

辺見庸_1辺見庸の語りが特集された番組がNHK-ETVで放送され、その批評をレジまぐ版に公開した。辺見庸のオーラルを反覆してビデオで見ていると、次第次第に、最初に映像を見たときに感じた違和感が削ぎ落とされていく。ブログで紹介しようとする目的が先行してしまうせいか、辺見庸の議論を理解的整理的に捉えようとする動機が働いて、その勢いでさらに辺見庸の世界に内在的に入り込み、そうすると、辺見庸の読者なら誰でもそうかも知れないが、どこかで化学変化のようなものが起き、口調や文体が辺見庸のようになる。知らず知らずのうちに表現の方法を模倣している自分に気づく。私だけでなく、ネット世界やブログ界隈のあちこちに、辺見庸になりきった個性が出没しているのが散見され、その肩肘張った光景に妙に拍子抜けした気分にさせられる。不吉なことを言ってはいけないが、あれだけ完成度の高い芸術的なオーラル作品を見せられると、司馬遼太郎や筑紫哲也のことを思って不安にならざるを得ない。辺見庸は65歳、年はまだ若いけれど、その言葉に「遺言」を感じるようになると、悪い予感が必ず的中してきた。  
      
辺見庸_2パンデミックの時代を説明する辺見庸のメッセージの中で、特に注目させられたのは、正義、権利、人権、人倫、尊厳、平等、約束など、近代以降、われわれが当然の前提としてきたもの、所与として考えてきた原理や価値の存在が、実は根こそぎ奪われて喪失されているではないかという告発であり、社会的真実を暴露した主張だった。「ありますよと言われても、本当はないよね」。思い返せば、5年前の『抵抗論』の中で、辺見庸は日本国憲法の逐条解釈のような試みを読者に示していた。無論、それは法学的な論文ではなかったが、きわめて説得力のある本質を射抜く議論が展開され、憲法が国民に保障している諸権利の実情がどうなっているかを直截に検証し得ていた。そのとき辺見庸が文章の中で多用していた言葉は「決壊」だった。正義とか尊厳とか人倫などという言葉は法理論体系の根本的な術後で、各国の憲法前文とか、フランス人権宣言とか、米国の独立宣言とか、国連憲章などに入っている言葉だけれど、それらの言葉が、イスラエルのガザ攻撃だとか、派遣切りの現実の中で、今、限りなく薄く怪しく、うそ臭く、軽い装飾的なオブジェの置石のようになっている。

辺見庸_3辺見庸は、番組で「約束」と言ったが、これはおそらく「契約」に置き換えた方がいい。契約という概念は法の世界の基礎中の基礎範疇で、この言葉で法によって結ばれる人と人の関係があらわされる。ローマ法以来の概念である契約、ここには前提がある。辺見庸の指摘は鋭い。その前提とは、契約をする当事者である甲と乙は、法の下に自由で平等であるという前提であり原理である。法の下の平等、権利において平等。だが、例えば、財布に200円しかなく住所不定の無職の人間が、住む場所込みの仕事を探し、ようやく派遣会社で寮アパート付きの工場労働にありついたとき、そのときの契約内容はどうなるのか。甲と乙の二者は自由で平等な関係なのか。フリーでフラットな関係として権利と義務を相互に認めて拘束し合えるのか。その契約書に書き込まれる内容で、例えば、部屋に据え置きの布団貸し料が月5千円控除だとか、アパート貸与の手数料1万円控除だとか、いわゆる貧困ビジネスの範疇に入る不当な控除の数々が項目に列挙されても、契約当事者で署名捺印する労働者は、文句を言えず、黙って義務として受け入れなくてはならず、それらは民法上の契約の名の下に合法化されるのである。

辺見庸_4そんなことは昔からあったことで、どの時代も同じだと人は言うが、それは違う。少なくとも、近代以前と近代以降では原理原則が違い、そして近代以降は、そうした形式的平等の下での実質不平等に対して、社会は常に監視と警戒の目を配り、と言うことは、常に法の抜け穴を探して実質不平等な不当契約を押しつけようとする強者の立場が必ずあるのだけれど、その一方で、運用面での原理的平等を担保すべく、立法するときでも運用の場面においても、弱者に配慮する勢力や視線は必ず存在し、それは原理的に確立されていて、甲乙二者の法の前の平等が当然である時代が続いてきた。少なくとも、日本国憲法施行後の戦後日本はそういう社会だったと言うことができる。権利の侵害や公序良俗違反に対しては異議申し立てすることができ、人はどこまでも法的平等を貫徹して求めることができた。人は生まれながらに不平等だという観念が常識として支配する時代ではなかった。現在、契約は人を支配し収奪する道具になり、不当な収奪を合法化する装置になっている。二重性を帯びていた契約の意味が、赤裸々な一つの意味になってしまった。

辺見庸_5実は、辺見庸のこの主張を聞いたとき、私が思い浮かべたのは、つい最近の自らの体験である福島瑞穂との対論の出来事だった。何を思ったかと言うと、辺見庸の言う、権利とか人権とか、人が生きる上で決定的に重要なものは、実は今の国民には本当は与えられてはいないという事実を確信了解したのは、それを私に教えてくれたのは、他ならぬ福島瑞穂だったからである。権利だとか、人権だとか、平等だとか、尊厳だとか、それらの言葉が目の前に並ぶとき、われわれの頭に浮かぶところで、それらの概念に最も親近的な表象として思い描かれる具体的人物は誰か。人権だとか、平等だとか、尊厳だとかを常に口に出し、最もそれら近代法理念に忠実で、政治的主張の基礎に置いているはずの政治家が、人権派弁護士で社民党党首の福島瑞穂である。社民党の前の党首は土井たか子で、この人は同志社の憲法学の教授であり、日本国憲法を学生に講義する立場で、まさに護憲を人格化した政治家だった。福島瑞穂はその土井たか子の後継者のはずだ。少なくとも、当日の私と福島瑞穂との関係では、国民主権と国民代表の概念は彼女には無かった。それらはフィクション(虚構)であるというメッセージが叩きつけられ、そんな言葉を信じるなと態度で言われたのである。

辺見庸_6福島瑞穂から、国民主権や国民代表など存在しないものだから信じるなと言われたら、一体どうやって教科書の上の国民主権や国民代表を信じられるのか。私は、偉い政治家に構ってもらえなかった愚痴を言っているのではない。恨みつらみを言っているのではない。辺見庸の主張に対して、個人的体験から、その真実性を補強する事実を挙証しているのである。生まれながらに国民に付与されている権利について、「そんなものは今はない」と辺見庸は言った。国民より先に、民間の現場より先に、野党の政治家の中で、権利や人権や尊厳や平等は消えている。政治家の前に現れる国民というのは、ツーショットの写真を撮って大喜びし、「頑張って下さい」と握手するファンの存在であり、政治家は彼ら国民の前で芸能人のアイドルのように振る舞う存在なのである。政治家たちは、国民も「国民主権」や「国民代表」がフィクションだと思っていると思っている。面倒なことを言い出してくるのがいたら、テレビカメラが入ってなければ、「あっちへ行けシッシッ」と追い払うべき瑣末な存在なのだ。少なくとも、福島瑞穂が私を見た眼差しの中には、人権だの平等だのという法的理念性は無かった。野党党首の福島瑞穂にとって、私は、「羅生門」の京の町を徘徊するボロを着た薄汚い浮浪者だったのである。

辺見庸_7私が福島瑞穂に抗ったのは、最後の方は、派遣法改正の野党協議に共産党を入れろ入れないの問題ではなかった。私は議員を選出して国会に送り出す主権者の立場の人間で、正論の提案をしているのだから、国民代表の立場の者は、前向きな態度で誠実に話を聞いたらどうなのだというプロテストだった。主権者は国民だろうと国会議員に言っていたのであり、権利を主張していたのであり、憲法が定める前提や原理の現実場面での適用を行動として求めていたのである。自民党や民主党の議員に対してなら、私はそのようなものは求めない。だが、それを社民党の議員から、あろうことか護憲派党首の福島瑞穂から、頭から否定されるとは思わなかった。福島瑞穂は、今はまだ私との悶着の一件を覚えているかも知れない。内面に瑕疵として引き摺っているかも知れない。だが、半年経ち、一年経ち、選挙が来て、選挙が終われば、また忘れて、元のアイドル芸能政治家に戻るに違いない。今は、集会に出ても、お行儀よく、テレビカメラが入っているように振る舞っているだろう。だが、目の前に現れて来るのは、相変わらずツーショット撮影の芸能ファンばかりであり、私との悶着などは過去の不愉快な思い出になるのだ。あれから半月が経ったが、派遣法の問題は何も進展していない。

野党で協議がされた気配は微塵もなく、徴候はなく、経営者は自由自在に派遣切りをやり、派遣切りに飽きて正社員切りを始めたが、今後も派遣問題で野党が結束して動くことはないだろう。一瞬だけのパフォーマンスで終わりであり、自民党と政府だけが年度末の対症療法に当たる。首切りの数だけが増えて積み重なって行く。

辺見庸_Z
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辺見庸

私もあの番組は観ました。脳出血で倒れ、それでも何かを伝え残そうとする
彼の言葉に強く引き込まれました。今の時代の日本に起こっている何事かを冷徹に見つめる眼差しは、言葉を真摯に紡いできた人間の気迫を感じました。

パンデミック (感染爆発) !

米時間昨夜レジマグ版を読んで、米時間今朝このFC2版で、辺見庸論を読みました。
レジマグ版の方は、かれの終末論を追究し、荒削りですが強い感情を込めて、パレスチナ民族の大虐殺と日本民族の危機を対比させて書かれていて、感銘を受けました。

パンデミック(感染爆発)症候群、とはまたなんというヤナ感じのことばでしょう。僕は辺見氏の論にまだ直接触れていませんが、5年ほど前に鳥インフルエンザが流行しはじめたとき、友人とのE-mailで、このことば「パンデミック」を使って、アフガンからイラクに感染した戦争の話をしていたことがあります。

今回のテーマ辺見庸氏に関して、この地で入手できる資料は少ないのですが、今週の「週間金曜日」というものが空輸されてきたらぜひ購読したいと思います。これからも情報とともに質の高い「知的扇動」を期待しています。

No title

私は比例の投票先を社民党にと考えていたのですが、共産党に変更した方がいいのでしょうか?教えてください。e-259

近日再放送

3月1日(日)15時~90分 NHK教育 再放送ですね。
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